ゆとり?みのり?新しい学力観?関心意欲態度?
突然ですが、以下、読んでみてください。
「学力低下は予測し得る不安と言うか、覚悟しながら教育審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんと いうことです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすこと に振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばい いんです。
トップになる人間が幸福とは限りませんよ。私が子供の頃、隣の隣に中央官庁の局長が住んでいた。その母親は魚の行商をしていた人で、よくグチをこぼしてい たのを覚えています。息子を大学なんかやるもんじゃない。お陰で生活が離れてしまった。行商も辞めさせられて、全然楽しくない、魚屋をやらせておけばよ かったと。裏を返せば自慢話なのかもしれないが、つまりそういう、家業に誇りを与える教育が必要だということだ。大工の熊さんも八っつぁんも、貧しいけれ ど腕には自信を持って生きてきたわけでしょう。 今まで、中以上の生徒を放置しすぎた。中以下なら“どうせ俺なんか”で済むところが、なまじ中以上は考える分だけキレてしまう。昨今の十七歳問題は、そういうことも原因なんです。
平均学力が高いのは、遅れてる国が近代国家に追いつけ追い越せと国民の尻を叩いた結果ですよ。国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれ ど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になっていかなければなりません。それが“ゆとり教育”の本当の目的。エリート教育とは言いにくい 時代だから、回りくどく言っただけの話だ」
(前教育課程審議会会長 三浦朱門)
さて、今読んでいただいたのは…
ゆとり教育は失敗だったのか、と世間をにぎわせているころの当時の最高責任者であった人物の答申です。これを読めば、ある意味、それは成功していたと理解できます。氏の狙い通り、学力の二極化は顕著になり、平均は大きく下がるけど、立派な若者も出てきていました。まさに計画通り。実は、真の意図でいえば、ゆとり教育=エリート教育は大成功していたのですね。とはいえ、世論がそれを許さなかった。多角的な視点で人物を評価できるように、新しい学力観の模索は止まることは絶対にありません。
では、次にこれを読んでみてください。
戦後の文科省の学力観の変遷
今日の学校教育に強く影響している学力観は大きく3つある。
まず、1970年代の詰め込み主義が落ちこぼれ・少年非行・校内暴力などの教育問題・社会問題を招いたことへの反省から生まれたのが「新しい学力観」(1987年)である。関心・意欲・態度の強調と自ら学ぶ意欲と社会変化に主体的に対応できる能力の強調が特徴である。 この「新しい学力観」をさらに展開したものが「生きる力」(1996年)である。心の教育や身体の教育にまで踏み込んだのが特徴である。
これらの学力観は文科省が教育課程審議会や中央教育審議会で提案してきたものであり、まとめて「ゆとり路線」と呼ばれることもある。しかし、文科省の「ゆとり路線」は、大きな障害に出合う。子どもの自主性の過度な尊重による教育指導の後退、および学力低下への懸念である。
文科省はマスコミをあげての教師批判と学力低下批判の高まりのなかで、「ゆとり路線」を守るために「確かな学力」の学力観を提案した。この「確かな学力」は『学びのすすめ』(2002年)の中で提案され、今、日本の学校教育を方向づけているのはまさにこの学力観である。その特徴は、学力低下批判論者が唱える学問中心主義や勤勉主義を一定程度まで取り込みつつ、「ゆとり路線」の中核にある経験主義や児童中心主義を守ろうとしていることである。いわば新旧両立的ないしは新旧融合的な学力観である
『学びのすすめ』が提案する「確かな学力」は、上述のように、学力低下批判への対応と、子どもへの過度の自主性の尊重(≒教師の受け身的、放任主義的傾向)の修正の試みであるとみることができる。「ゆとり路線」を守り通そうとした文科省の苦肉の策とみることができる。そしてそのような背景から『学びのすすめ』は、なによりもまずきめ細かな指導(=教師の積極的な指導)を求めている。さらに、旧来の指導の原理である〈勤勉主義+教科書(学問)中心主義〉と、古くて新しい指導原理である〈経験主義+児童中心主義〉 の両立をはかろうとしていることにその特徴を見い出すことができる。
文科省ウェブサイトから、「確かな学力」を育てるための具体的な提案をみると、新旧両原理の両立を目指すという特徴が、「きめ細かな指導」「基礎・基本」「学ぶ習慣」「自ら学び自ら考える力」などといった言葉の混在で表現されている。
(ベネッセ教育総合研究所)
ベネッセさんが寄稿した文書でした。さて、
要するに、知識を「覚える」だけではなく「使える」ようになりましょう、という話です。
それを1980年代後半からずーっと同じことを言い方を変えながら繰り返しているだけです。
文科省は基本的には、ゆとり教育=エリート教育が正しいと思っているのでしょう。しかし、やはり学力不安も取り除かなければなりません。だから、覚えることも大事ですよー、と取り繕うように言い続けているわけです。
漫画ですけど、「ドラゴン桜」では、詰込み教育こそ真の教育である!と明言していました。そりゃそうです。「教える」以外に学校ごときに何ができるのでしょうか。
これからの学力といっても、そんなに大げさに変わるものでもありません。使える知識を習って使いこなせるようになるまで練習する。ただそれだけ、もっといえば、未来永劫「今まで通り」です。