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【高槻第3ゼミ】嫌いな科目のはなし

大阪府高槻市にある高槻第3中学専門塾の高槻第3ゼミナールの播磨です。

 

皆さんは数学好きですか?私は嫌いでした。嫌いでしたが、必要だったので最低限は勉強していました。

 

嫌いではありましたが、好きな部分もありました。

 

今日は、嫌いな科目だからといって条件反射で「無理!」とならない方が良いという話をします。

 

↓読まなくても話は分かります

―――――――――

思い返すともう10年以上前の話になります。

私は頭は良かったのですが、好きな教科しか勉強しない偏食家(それがカッコいいと思っていた)でした。

なにかに特化した方が、専門家っぽくってカッコいいとさえ思っていました。

それが災いして、高校生の時の数学の偏差値がとんでもないことになってしまったのですが……。

――――――――――

 

そんな私でも、嫌いだった数学で好きな話があります。

人類が絶滅する確率の話です。

 

想像してください。

当たったら3億円もらえる『くじ引き』があります。あなたは大きな箱の中に手を突っ込みます。

紙の『くじ』が入っているようで、あなたはその中から1枚をひきます。

たまたま、偶然『あたり』と書かれた紙が出てきました。

さて、この箱の中には何枚のくじが入っていたのでしょうか。

 

思うに、おそらく10枚とか、多くて100枚程度じゃないでしょうか?

何故なら、一回目であたりをひく、なんていうのはとんでもない確率だとは思いませんか?

あるいは、最近の小学生・中学生・高校生はゲームのガチャを知っているのですから、もう少しは多いかもしれません。

 

ですが、この箱の中に入っている『くじ』が、100万枚や、たったの1枚とは想像しなかったでしょう。

100万枚のうち1枚を、偶然一回目で引き当てるなんて言うのは考えられないですし、

3億円ももらえる『くじ引き』を、なんのリスクもなしに当たり1枚だけが入っているわけがない。

 

話を変えましょう。

人類が絶滅するタイミングに生まれる人は、何番目に生まれてくるのでしょうか。

例えばでっかい隕石が落ちてきて恐竜みたく絶滅するとか、めちゃくちゃな氷河期がきて絶滅してしまうとか。

そういう目にあってしまう人たちは、人類で何番目くらいの人たちなのでしょうか。

人類が滅亡するなんていう、とんでもないことを『自分達』が『くじ引き』のように『引く』ことなんてありえないと、つい思ってしまいますね。

 

それでは、本題の人類が絶滅する可能性の話です。

 

我々はつい、真ん中で考えてしまうクセがあるのです。

先程の例でいうと、数の分からないくじ引きで当たりをひいたとき、つい極端な可能性は考えないようにしてしまうのです。

人類が絶滅する……という大惨事に、今生きている私たちが巻き込まれる可能性はどれくらいなのでしょうか。

現在、人類という種の人口はおよそ1000億人ともいわれています。これはもちろん、人類という種が地球に発生するところから数えたとしての話です。

そして、現在(2024年7月4日)の世界人口は約81億人です。1000億のうちの約81億人程度?と思うかもしれませんが、人類が増え始めたのはつい最近のことです。

幸運にも約919億人の人たちは人類の滅亡には立ち会わなかったようですね。

 

ここまでは過去と今の話。我々はまだ知ることはできませんが、人類の種としての尺度で考えましょう。

人類種が滅びることがあったと仮定して、そして人口も増え続けるとしたら、現在生きている我々は人類種の『人生』のうち、どこらへんにいるのでしょうか。

国連の発表によると

 

1950年 25億人

1970年 37億人

1990年 53億人

2010年 70億人

2030年(予測) 85億人

2050年(予測)97億人

2070年(予測 102億人

2090年(予測)104億人

 

1950年から100年経った際に、人口は約+70億人です。

さらに言えば、仮に明日から日本の少子高齢化が劇的な改善を見せ、更に医療が発展して平均寿命が延び、あらゆる戦争が終わったとして、人口が増え続けていったなら。

予測を超える技術革新があって人類という種が豊かになったのなら、より人口は増加し続けるのかもしれません。

と、考えていくと人類種の『人生』で行けば、総人口の最初の方……になるのはわかりますか?

現在私たちは人類種生まれてきた順で言うと、1000億人目ですが、これが未来で増え続けるのなら、仮に10兆人生まれるのであれば。

 

私たちは100分の1,つまりたった1%という位置にいるのです。

 

そんなこと、あり得ないように思えませんか?

前提条件がそもそもあり得ない設定ですから、そう思えても当然なのですが、実際に自分たちが人類の中で0.01に属しているかと言われれば、そうとは思えません。

少なくとも、真ん中、とは思えませんか?

 

つまり、最初の方であるとは思えない(現に人類が700万年前に生まれてきているわけですから)ですし、人類が絶滅する危機に、100年後・50年後・10年後・1年後・1カ月後・1週間後に直面するわけがないと、考えてしまいます。

 

ということは現在生きている私たちは真ん中らへんにいると考えられる。

 

と、なると

 

私たち自身は人類が絶滅する場面に遭遇するようなことはないが、私たち人類という種はそう遠くない未来で絶滅してもおかしくない、と考えるべきなのです。

 

「先生、数学と何の関係があるんですか……」と思ったでしょう。

この話の元ネタでは、数学の確率論を用いて説明しているんです。私は数学が苦手だったので、その確率論を読み飛ばしていたので当時は『くじ引き』のたとえ話を気に入っただけでした。

ですが、大学生になってからこの説に反論したい気持ちが湧いてきたのですが(遅い)、その時には既に数学なんて勉強している暇がなかった(言い訳でしかありません)ので、途中で頓挫してしまいました。

この時生まれて初めて「嫌いな科目でも、理解しようとするべきだった」と後悔したのです(かなり遅い)。

そして既にほかの人によって反論されているのでした(先行研究不足)。

 

嫌いな科目だからやらない、は将来後悔することになると、大人は口をそろえて言います。

何故なら、好きな科目に嫌いな科目のことが関わってくるんです。

私は哲学が好きでした。小難しい話を、小難しく言うのがカッコいいと思っていました。

その時に出会った終末論法、たとえ話が面白かったのにもかかわらず数学ができなさすぎて中途半端な知識になってしまった。

 

他のことでも言えます。例えば

 

英語が好きでも文章の意味が分からない(つまり国語をおろそかにしていた)ならそもそも読めてもしょうがない。

社会が好きでも、発明に何の意味があったか分からない(つまり理科をおろそかにしていた)なら、なぜ人類に技術の革新が起こったか捉えきれない。

理科が好きでも、どこが社会の役に立つか分からない(つまり社会をおろそかにしていた)なら、発明に意味が生まれない。

 

……というように、勉強のすべては、人生のすべてに繋がっているのです。

だからと言って勉強をしないひと/嫌いな人がダメかと言われればそうではありません。

生きているだけで、学べていることは多い。ただし、その学びの深さに自分が満足できるかだと思います。

 

学びの深さとはなんでしょうか。

例えば1枚の絵があったとします。

 

ただの絵1枚をとっても、それがオランダのレンブラントが描いた夜警という作品で、アムステルダムの美術館にあって、明暗法で描かれていて、描かれれているのはレンブラントに依頼した人たちで、レンブラントはお金を使いすぎる癖があって、そして彼の人生は転落していって、愛する妻を亡くし、娘を亡くし、一人孤独で……。

 

絵を見た、だけでは得られない物語、そして充足感がある。

それには知識が必要で、小学校や中学校で学んだ全ての科目が関係してくるのです。

 

嫌いな科目は嫌い。確かにその通りです。

ペンが進まないのも仕方ない。ですが、理解しようと頑張れば将来役に立つはずです。

 

嫌いな科目だからといって条件反射で「無理!」とならない方が良いんです。

 

好きになる努力がめんどくさいと思うのなら近くにいる大人や先生に、その嫌いな教科の「楽しい話をして」と言えば、もしかしたら素敵な話が出てくるかもしれませんよ。

 

私はそういう話が好きなので、もし勉強で退屈しているなら、ぜひ高槻第3ゼミナールにおこしください。

 

高槻第3ゼミナール

播磨

0120-419-816

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