文系理系とかいう摩訶不思議な概念について
さて、今回は文系理系とかいう摩訶不思議な概念について少しお話しようかと。
この分け方には、ずっと違和感があるのですよ。
たいがいの場合、国語社会を文系、理科数学を理系とカテゴライズしますよね?
いや、これ、おかしくないですか?
国語と数学って同時に得意か苦手かになるはずだし、
理科と社会って同時に得意か苦手かになるはずなんですよ。ふつうに。
いちおうちなみに、私自身の学生時代は、国語数学が得意で理科社会は不得意でした。
これですね、国語も数学も「論理」「情報」なんですよ…扱う文字が漢字が多いか数字が多いかぐらいの違いしかありません。
根本的な脳の使い方は、国語と数学ではほとんど同じなんです。それは紛れもなく「論理」ですね。
数学に割り振られている、図形の合同証明なんか典型的ですね。人を納得させる条件を整えるなんて、
「情報」そのものじゃないですか。それだったりあと、数学Aで学ぶような、集合の話とか必要十分の話とか
あれ、「論理」以外のなにものでもありません。国語でよくある選択問題、あれは、
「この中ではこれが一番正解に近い」を選ばせています。これ重要です。この
「この中ではこれが一番正解に近い」の概念の習得がまさに、「論理」「情報」なのです。
本来「論理」や「情報」とでも呼ばれるはずの科目を、漢字が多いか数字が多いかでなぜか二つに分けてしまったのが
「国語」と「数学」の正体です。かたっぽ得意でかたっぽ苦手だというのは脳の仕組み的にあり得ません。
このように、おおよそ「考える」科目である「国語数学」に対して「理科社会」は「覚える」科目です。
「理科社会」の「覚える」量は国語数学の比になりません。膨大です。ようは、「覚える」という脳の使い方が得意なのであれば
「理科社会」は同時に得意になるはずでしょう。いうまでもなく「考える」が得意なら「国語数学」は同時に得意になります。
つまり、脳の使い方の違いとして、そもそも、文系理系どっちが得意? という質問は成立してないのですよ。
こんな摩訶不思議な質問、答える気失せます。
「考える」と「覚える」どっちが得意? という質問が成立します。私自身はたまたま前者ですってだけの話。
ここまで読んで、英語は? とぼんやり頭に浮かんでるひとも一定数いると思いますが、
詳しくはまた次の機会に話してみようと思いますが、
「英語」は「実技科目」です。つまり、本来、音楽美術体育家庭科の仲間なんですよ。
もうそこから狂ってるんですw とりあえずこの話は今回はここまで。
さて、現実的な話もつづけてみましょう。
多くの高校1年生はこの時期になると文系か理系かの選択に迷うでしょう。
大昔の幻想を引きずる大人たちは、
理系の方が就職が有利だから
などと得体のしれないことを言っているし。
しかしよくよく考えてみましょう。
そもそも高校1年生が大学を卒業し就職をするのは7年後であることを。
そして、大人たちが就職活動したのはもう30年も前の話であることを。
私はこう思います。
大切なのは「大学で何をするか」かであって、理系か文系かの問題ではない。
例えば、理系は「地理」なんて誰が決めたのであろうか?
柔軟な学校は、理系でも日本史・世界史を選択できる。
もっといえば、そろそろ文系・理系の選択はやめて、「授業選択」になりませんかね。
将来の就職のためなどというカスみたいな理由で文系理系を選択するのはおよしなさい。
そもそも文系理系を選択するというのは、
指定校推薦が取りやすいからとか就職しやすいからとかいう、
そういうカスみたいな観点から考えるものではない。
そもそも大学というのは就職予備校ではない。
就職のことを言えば、企業側だっていつまでも大学名だけで採用したりすることによって、
厄介な人材が会社の中に入ってくるということも痛いほど知っているし、
大切な事は、どこの大学か以上に「大学で何を学んだか」である。
「名前」だけで選ぶ時代も選ばれる時代も、そんな時代が間違ってたんですよ。
大人たちもほんとはもう、そんなことにくらい気づいているでしょう。
でも、気づかないフリをしているのです。潜在的な意識のどこかで
自分の学生時代が間違っていたと思いたくないんでしょうね。
未来を担う子どもたち、つまり国の宝のために、現実的にものを考えられる大人になりたいものです。