ジュクサガスは通学の公立小中学校・合格実績・実施検定から塾を検索できる全国初の学習塾口コミ情報サイトです!

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2018.01.25
おかあさん、それ、ワガママやないよ
今日はZOOMオンライン遠隔授業が
午後4時から5時半までと
午後7時半から9時までの
2回の日です。

リアル授業と異なり、
例えば、解答は既存のものではなくて、
画面の向こう側にいる子どもさんが
学習しているのと同じページを
コピーして、手書き解答や解説を
用意する、


あるいは、
画面共有で説明しにくい箇所は、
やはり事前に解説ファイルを用意し

コピー機でスキャニングしたあとは、
PDF 化させるまでが
大まかな事前準備です。

結構大変ですが
教材研究を兼ねているので
これはこれで楽しいわけで・・・。

で、午後4時からの部で
小学2年生のY君が、
ちょいとご機嫌ナナメでした。

前日に学校でイヤなことがあって
まだ引きずっているそうで・・・

授業の合間に、
何があったのかを
それとなく聞いてみる・・・。

それについての反論は一切しないで
むしろ同調することで、
Y君のナナメになった機嫌は
ゴキゲンにまではならないけれど、
結構真っ直ぐになってきたりします。



左斜め45度くらいになっていたら、

相当ご機嫌斜めですが、

この年齢の子がこないなっていたら

もう既に怒ってはる状態ですね。



それもわめいている状態です。

授業終了後、
お母様から
こんなメッセージが
送られてきました。


「最近ダルダルで
 しかも舐めた態度ですみません」

Y君の学習態度を
お隣の部屋から
家事をしながら
それとなくご覧になっていた
ご様子がうかがえます。

このメッセージを戴いた瞬間に、
確かに最近
ちょっと慣れてきたのか
Y君の自由度が
広がってきているな~とは
感じていましたが、
「舐めた態度」というところは、
「う~ん・・・」だったのですね。

Y君に決して悪意はないのですね。
ただ馴れ馴れしくなって来ている
いわゆる「なあなあ」の状態。



これは一種の甘えであって、

この年齢の子どもさん

特有の所作のひとつに過ぎません。

Y君の場合は

ほんの少しのレベル。

そこで、
このようなメッセージを
お送りすると、
さらに次のようなメッセージの
交換になりました

「いえいえ。
子どもさんって精神的に
不安定なのが普通です。

日によって機嫌が違っているのが、
むしろ正常です。

それが高学年になると、
安定してきますね。

ですから、
この不安定さを受け入れてあげないと、
高学年になってから不安定になります。

そうなったら大変です。」

「そうなんですね…。
 不安定なのが正常だと思えると、
 ちょっと気が楽になります。」

「なぜ不安定になるか、なんですが、
 高学年になっても、
 中高生になっても、
 大人になっても不安定に
 変わりはありません。

 大人だって、
 今日は仕事をしたくないと思う日が
 1年間で何日かはありますよね。

 じゃあ、どうして小学低学年期の
 子どもさんのように出てこないのか
 というと、
 感情をコントロールできるから
 なんですね。

 Y君はまだそれができない年齢
 なんですね。

 その時期には妙に制御させないで、
 むしろ吐き出させる方が
 イイのです。

 それをしながら、
 彼自身で気づいて
 学んで行くからです。

 吐き出させないと
 自分で学べない。

 だから溜め込まずに
 吐き出させるんです。

 その際に、
 他人に迷惑をかけるレベルに
 達したときだけ
 大人が叱れば良いです。

 それがY君の学びです。」

「制御しなさいって
 言っちゃいました…

 (昨年の)4月から
 学校の役回りなどで忙しくて
 なかなか話す時間も
 とれていないので、
 溜まっていると思います。

 そろそろ落ち着いてきたので、
 一緒に過ごす時間を意識して
 とります。

 そこまでみていただいて
 ありがとうございます。」

このメッセージ交換から
浮かんできたことは、
【これ】ですね。

① 低学年期の子どもさんは
 まだ自分自身の感情を
 コントロール出来ません。

② 感情の起伏による
 ゴキゲン・不機嫌は、
 ワガママではないことです。

③ 「あれ好き」「これキライ」が
 ワガママです。いわゆる駄々を

 こねている場合ですね。

区別の仕方は
なんだかんだ言いながらでも、
ダラダラとでも、
学校の宿題や家庭学習教材を
しているのであれば、
それはワガママではなくて、
機嫌が悪いだけです。

確かに区別をするのは
難しいのですが・・・。

塾で、低学年期のこどもさんが
このような状態になって来たら、
黙ってその子の座席の横に座り、
様子を見るだけです。
それもゆる~い気配で。

このとき
その様子を見ている大人の
イライラ感や焦燥感は
一切見せないことです。

子どもってめっちゃ敏感なので、
自分にとって身近な大人の気配は
全身で感じ取っています。

逆にこちらが教えられることも
少なくありませんね。
2017.12.22
こんな会話をするのも、ウチの塾ならではなのかも・・・。
中学受験が迫ってきましたね。

帰国子女のK君。

ナンか飄々とした子ですが、
実はすごく敏感で繊細な子です。

ナンかのやり取りの中で
お母さんからこんなメッセージを
戴いたのです。


「本番が近くて日々怖いです。」

「あんまり神経質にならないでね。
 お母さんの心配が、
 言葉を超えてK君に伝わります。
 それよりも、日々目の前のことを
 一生懸命することに集中するように
 仕向けてあげてください。

 心配する=K君を信じていない

 もっと彼の底力を信じてあげてね。
 現場のK君を目の前で見ている
 私からの報告でした。」

 「Kひょうひょうとしてますわ、
  確かに。
  ありがとうございます。」

「でも、初めての受験やから、
 心配の種が
 尽きないんですけどね。
 そうなんですよね。
 本人は飄々としてますね。
 でも、結構神経の細い子で
 敏感なんで。

 それと情の深い子なので、
 心配の種が尽きないけれど、
 ここはぐっとお母さんの
 辛抱のしどころです。
 肝っ玉母ちゃんでいましょう。」

「そうですね。ありがとうございます。
 肝っ玉でいきます。」

「受験を前にしている子どもさんの
 お母さんって、
 みんな同じ気持ちやと思いますよ。

 みんなそれぞれが
 踏ん張ってはります。

 受験のレベルは違っていても、
 受験に対する条件は皆さん同じです。
 そう思うと、少しは楽になります。

 毎年、どなたかに言っていますね。
 毎年受験生を送り出す
 仕事をしているのですが、
 ホンマ、考え出したら、
 代わりに私が受ける方が気が楽です」

「絶対私が受ける方が
 気が楽ですね、確かに(笑)」

「そうそう。
 その気持ちです!(笑)」

特にK君は長男さんやから、
お母さんも初めての受験やし、
どうしてもナーバスに
なりはるんですね。

それは高校受験も同じです。

受験する学校のレベルとは無関係。
どのレベルであっても
親御さんに共通する想いは
これひとつやないですか?

わが子の想いを
どうか通させてあげてください。

神様、
よろしゅう頼んまっせ!
2017.12.19
時間のコンパスを長くすると、何が起こるでしょうか?
アスリート君の所属チームが
好結果を出したとかで、
今日の火曜日が、
珍しく「ご褒美オフ」の日と
なりました。

そういうわけで、
ZOOMスポット授業ではなくて
早い時間帯に

リアル授業にやって来ました。

今日は

【大好きな】英語です。

いえいえ、ホンマはね、

大キライなんです。

もともと
あまり好きではなかった英語なのに、
授業の進め方が他の中学校と異なり、
それと肌が合わないとかで、
決定的にキライになっているというのが
現状なのです。

まだ2年生やからエエけど、
受験期になったら四の五のと
言うてられへんようになるのと、


それでも逃げ回っていたとしても
自分がそのことを忘れかけた頃に、
今度は絶対に逃げられん状況に
追い詰められて、


結局は
どこかで先送りしたことの帳尻を
合わせないとアカンように
なっているのが人生の理(ことわり)
というものでして・・・

今は亡きバアチャンの
私の中での名言なんですが、

「あんな、人はな、みんなな、
 ひととおりのことをせん(しない)と
 死なれへんようになってんねんで。」
というのがあります。

とはいうものの、
一旦キライになったモンは、
感情的にはなかなか払拭できません。


でも、緩和することは出来ます。

要するに英語は避けて通れないので、
接し方を変えて
キライという感情を上手に避ける方法を
個別セッションで
伝授することにしました。

英語文法の問題集を丁寧に復習。
初めはアスリート君が持っているのと
全く同じのが塾舎にあるので、
それをコピーして学習。

答合わせは全て私がします。
というのは、アスリート君にさせたら
ただ単に「合った・間違った」で
終わってしまい、
きっと元のもくあみになるからです。

どうせ私が答合わせをするのであれば
間違ったところには
ラインマーカーを引き、
何を間違ったかとか、
テストによく出題されるところや
書き換え表現などを書き込み、

「これ、ノートを作って書いときや」
と指示を与えて書かせます。

その次は、手持ちの問題集で
もう1回学習させて、
そのとき間違えたら、
今度は自分で書き込むようにする。

すると、手持ちの問題集が
ヨタヨタになるころには、
アスリート君の頭の中は、
大きく変わっているはずです。

「ホンマ、学校の先生の授業は
 分からんから
 キライですわ」とのたまう
アスリート君。

「乗り心地の悪い電車やねんな。
 せやから、こっちの勉強の仕方で
 問題集がヨタヨタになる頃には、
 乗り心地のエエ電車になるわ。」

学校の先生には先生の
進め方があります。
それに対して
悪口は言わない方がイイね。

二言目に「だからキライ」と言うから
ますますキライになるのです。

だから
「今から【大好きな】
 英語をしようね!」と
私が発破をかけるのです。

「『嫌いキライも好きのうち』ってね、
 キライと言うてるうちは、
 まだ関心があるねん。
 それをそのまんまにしていたら、
 仕舞いには関心がなくなってくる。
 そないなったら
 取り返しがつかんようになる。」

だから「嫌いキライも好きのうち」
なのです。

アスリート君が一所懸命している
スポーツについて、
彼がどんなレベルにまで到達するかは
まだ未確定な部分が多いけれど、
外国の選手と関わらねばならないときが
遅かれ早かれ必ず来ます。

だって
そういうレベルのところに所属して
一所懸命している人ですからね。

そのときには
会話がある程度出来るレベルの英語が
必要になってくることでしょう。

目の前の英語のテストの成績を
上げるのは大事です。

でもそれを追いかけるから
今のレベルではますますキライになる。

だから、もうちょっと遠くを見よう。
時間のコンパスを長くすると、
今こだわってモヤモヤしている部分は
小さく見えるようになる。

それが大人の目線です。
それに気づいてくれたら
最高に嬉しいんやけどね・・・。
2017.12.19
やっぱり人との出会いが大事
中学2年生のNさんと、
こんな話をしました。

Nさん,英語と歴史が嫌いです。
苦手ではなくて「キライ」。

なので、英語は私との個別セッションで
進めることにしました。

というのは、
私と個別セッションをすると
私から余談が挟み込まれるので
そのほうが「キライ」という感情が
少しでも緩和されるかなと
思ったからです。

余談といっても
与太話ではなくて、こんな感じですね。

You musutn't play baseball here.
Don't play baseball here.


How about dancing ?
Shall we dance ?
Let's dance.
Why don't you dance ?

よく出題される書き換えですが、
ニュアンスが微妙に違うのですね。

どんな違いがあるかとか、
どういったシーンで使うかとか
そういうことを言うと
さすがの英語「キライ」のNさんも
笑いながら聞いてくれるし
場が和んで彼女からも
何か言ってくれます。

「嫌いなものを独りですると
 余計に陰にこもってくるでしょ?
 だから、このくらいの軽いノリで
 エエんよ。その方が自然と
 覚えられるから。」

私、実は学校で勉強していた英語が
キライでした。

せせこましくって堅苦しい。

当時は言語化できなかった自分の感情を
今になって言葉にすれば、
こういうことなんでしょうね。

男の子が学校の音楽の授業がキライで、
それでも高校生になると
なぜかバンドを組んで
エレクトリック・ギターを弄り始め、
あるいはキーボードを弄り始め、
あれだけ嫌がったはずの
楽譜を読むこととか、
一所懸命コピーした音を
楽譜に書き留めるとか、
そういことを
自発的にするようになるのですが、

私が学校の英語の
授業がキライだったのと
同じ感覚なんでしょうね。

こういう接し方をすれば
Nさんのような
「キライ」という感情を
なくせないかも知れませんが
和らげることは出来ます。

これも過去にいた生徒なのですが、
彼女も歴史が大嫌いでした。

理由は
「ナンで死んでしもた人のことばっかり
 覚えなアカンのん? 
 もっと生きてる人のこと勉強したい」

なかなかシンプルで
的を射ていると思いますね。

私、反論しません。
確かに一理ありますもの。

ところが、この子、その後に
大阪市立大学文学部歴史学科へ
進んだのです。

ホンマ、どんな風の吹き回しやねんと
合格を知らせてくれたときに
ツッコミまくりましたからね。

理由を尋ねると
高校2年生のときの歴史の先生のお話が
めちゃくちゃ
おもしろかったんだそうです。

まさに出会いですね。

Nさんにとって、
私がその出会いの人物になれば
幸いです。
2017.12.12
塾長の課題が、また増えました
音読の大切さが世に言われ始めて
しばらくを経ていますが、
今日、ZOOM授業をしていて、
私に向けて問いただされるような、
そんなシーンに遭遇したのです。

一言で「音読」といっても
いろいろあるんやないかと・・・

例えばこんな感じですね。

初めて接する文章を音読して、
それで理解が深まるか?

とにかく音読と称して、
学習者(特に低学年期の子どもさん)が
望みもしないことを
無理矢理にさせられたとしたら、
国語が苦手な子どもさんは
なおさら国語を敬遠するように
なるのでは?

中には音読を好まないけれど
黙読なら良しとする子どもさんがいる。
この子に対して音読は必要か?

黙読を好む子にはまず黙読をさせ、
読解問題を解くときに
指導者とやり取りをしながらでも
理解を深めることは
じゅうぶん出来ます。
その後にまとめとして音読させると
どのような結果が生まれるか?

などなど。

細かく分けるともっと
いろんな疑問が生まれてくるのですが、
自分が小学低学年期は
どんな子やったかと言うと、
音読を望んでいなかった子でした。

でも、必ず新しい単元に入る前は
「お家で読んで(音読して)
きましょう」という宿題が出され、
特に親父様に無理矢理読まされた
記憶があります。

「無理矢理」なので、
私自身の意思はスルーされています。

なので、本を読むのが決定的に
キライになりました。


これが、例えば、
将来アナウンサーになりたいという
夢を持っている子であれば、
まず音読ありきでしょうし、

その音読は、
文字を音声に代替えするような
いわゆる作業的なものではなくて、

自分の感情を込めたり
抑揚を付けたりして、
工夫を凝らす面白さを味いながら
楽しく音読することになるでしょう。

でも、こういう子どもさんは
とても少ないかもしれませんね。

ピアノ弾き(ピアニスト?)に
なりたくって小学6年生のときに
突然ピアノを習いたいと言い始めた私。

身体があまり丈夫な方では
なかったこともあり、
何かと理由をつけては
私を戸外で遊ばせたり運動させたりして
身体を鍛えさせようとしていた
親父様の思惑と
真っ向からぶつかりました。

ピアノを習い始めると
ますます戸外に出なくなることで、
身体が丈夫にならないまま
成長するのではないかという
親父様の愛情の表現だったとはいえ
当時の私に理解できるはずもなく、
親父様が根負けする形で
しかも親父様からの応援の約束まで
取りつけるという強引さで、
自分の意思を押し通したのです。

その後は親父様が
最大の応援者になるとはいえ、
ある目的に目覚めると
子どもって
ものすごい力を発揮するもんやと
思うのですね。

その後、バイエル教則本を
8か月で終え、4年後には
ベートーヴェン・ソナタや
ショパン・エチュードのレッスンを
師匠から受けていましたので、
強烈な自分の意思で進んだ結果として
「音楽のスーパー飛び級」を
していたんですね。

当の本人である私には
それがあたり前だったから、
そんな意識はありませんでした。

ですから逆に教える立場になったとき、
親御さんからの
「ウチの子に練習するように
言っていただけませんか?」という
訴えの意味が理解できませんでした。

別に上から目線で
言っているのではなくて、

ピアノを習いに来ているんやから、
練習なんて自分からするのん
あたり前とちゃうのん?

それが普通だと思っていたからです。

だってキライやったら
習いに来(け)えへんし・・・!

それが当時の感覚でした。
ですから、教えるのを辞めたのです。
自分の演奏の研究の方が
余程におもしろかったからです。

今から考えたら
ナンという傲慢な・・・!


「当時」とは、
私が二十歳代のときです。
あくまでも自分の世界が中心。
それが普通だと思っていました。

まあ、そこまで強烈ではないにせよ、
親子ですから、
思考パターンの奥底の部分では
おそらく繋がっていると思いますが、
表に出される、いわゆる表現の仕方は
全くの別物になることも
少なくありません。

自分の事例をさらに出して
恐縮ですが、
私が生徒に叱っているときの姿は
親父様そっくりだと
オフクロ様から
言われたことがあります。

これこそ奥底の部分。

スポーツが大好きだった親父様と
それが大キライで
音楽の方を向いていた私とでは
おもしろいと感じる分野が
似ても似つかないわけで、
これが脳タイプの違い、
いわゆる
思考パターンの違いなのです。

そういう経験で観たとき、
「音読は大切だ! 
 さあ右へならえ!」では、
子どもの思考パターンに
寄り添うことは
出来ないのではないかと
思うのですね。

二十歳代の傲慢さから
よくぞここまで考える裾野を
広げることが出来るようになったなと、
自分で自分を褒めたいような・・・

これでも30余年を経ましたから、
たま~に遊びに来てくれる
第1期卒塾生いわく
(もう40歳になっとりますがな)、
「先生、穏やかになりはりましたね~」

56歳でっせ。
丸くもなりますって。
なれへんかったら、
それはそれでおかしいし・・・

それで、子どもさんの思考パターンに
寄り添うということについて、
それでは甘やかすことにならないのかと
問われる方もいらっしゃるでしょうが、

甘やかすのと
子どもに最も身近な大人が
その的確な判断で
子どもの意思を尊重するのとは
似ても似つかないものです。

今日、ZOOM授業をしていて
「この子は、どのような
脳タイプの子なのだろう」と
その子の言動を観ていて
考えさせられたのです。

音読は大切だと思うことに
異論はありません。

ただ、「みんなが言うてるんやから
アンタもやりなはれ」ではね・・・。

そういう意味で、
音読するタイミングを推し量るのは
簡単なようで難しいもんやなと、
新しい気づきがあったと同時に、
研究課題ができたなという
思いでいます。

これも塾長の宿題です。
2017.12.10
「副教科」と言うべからず!
今でも時々、こんな形で
卒塾生が訪ねてくれることがあります。

「先生、楽譜の読み方教えて下さい。」

こういうパターンは大抵は男の子です。

中学生のとき
「君は音楽は聞かへんの?」と
私が尋ねる言葉を振り払うように、
「音楽なんかショーモナイ!」と
言っていた子ほど、

何がどこで どないなったんか、
おそらくどこかで転んで
頭の打ち所があったんやろな~としか
思えないような台詞をのたまうのは
これ如何に?

「どういう風の吹き回しなん?」

「いや・・・それが、
 センパイにバンドに引き込まれて・・・」

「先生~、オレ、バンドで
 キーボード任されて・・・」

「ベースギターのあの低音の
 インパクトにヤられてしまって・・・」

ほうほう、
ウーファーに魂を奪われたとな?


「先生、パイプオルガンの曲のCDって
 持ってはりますか?」

クラッシック音楽なんか
一生聞かへんわ!・・・とか
叫んどったよな~、確か・・・。

聞けば、
あの重低音に心を奪われたとかで、
ベースギターで再現できないか
試してみたいとか・・・

理由は千差万別ですが、
中学生のときは
「音楽なんかナンであるねん!」と
言っていた子ほど、
バンドに誘われ、
エレクトリックギターを手にした瞬間、
何かが降臨するのでしょうか、
もう「どハマり」するのです。

そこでハタと気づいたことは、【これ】。

オレ、楽譜、読まれへんやん!
全然分からんし!

それでもCDなどを聞いて
一所懸命に音を探してコピーする。

すると、もうひとつの
大問題が浮上します。

オレ、楽譜、書かれへんやん!
読まれへんし、書かれへんし、
どないすんねん!


ナンでこんなことが起きるのか、
ずっとナゾの部分がありましたが、
最近なんとなく解けてきたのです。

ちょっと難しい話になりますが
お許しを・・・。

明治政府の富国強兵政策に由来するのが
現在の小中学校の
音楽の教科書なのです。

・・・なんて言われてもな~・・・。

教育の大切さを頓に感じた明治政府が
施行した学制。

音楽教育もその中に含まれていました。

大日本国憲法はドイツを見習って
立憲されたことはご周知の通りですが、
音楽もまた厳格なドイツ音楽と
その教育法を基礎に、
子どもたちに授けられたのです。

要するに、小中学校の
音楽の教科書の中味は、
感覚重視の音楽ではなくて
「音楽学」という学問なのです。

ところが、実際の音楽、
特に商業音楽は、
そういう作曲法を知らなくても
感覚的に作られたものが
圧倒的に多いのですね。

勿論そうでないのもあります。

例えばサザンオールスターズの曲は
メチャクチャ厳格に作曲されています。

聴き入れば聴き入るほどおもしろい!
コアな聴き方をすればするほど、
すごい曲作りをしているのが
分かってきて、
ホンマにおもしろいのです。

でも、こんなの、
学校の教科書レベルでは
到底分かりません。

で、教師時代に、試しに、
ポップスを使って曲を分析したのを
生徒の前で授業してみたら、
大受けしたのですね。

授業終了後、
「先生! 今日の授業最高!
 めっちゃおもしろかった~!」

「毎回こんな授業やったら、
 音楽絶対に好きになるわ~!」

意外なものでした。


自分もかつては音楽の教師で
教科書を使っていた身で
こんなこというのは
気が引けるとはいえ、
今の音楽の教科書が
生徒が知りたいと思っていることと
如何にかけ離れているか
ということなんですね。

だから「音楽キライ」なのです。

いえいえ、
それは音楽が嫌いなのではなくて、
音楽の授業が
おもしろくないだけのこと。

高校生になって
何かをきっかけにして
あこがれのバンドの曲を
一所懸命コピーしようとしたとき、
その曲の作り方の凄さを
初めて肌で知ることになるのです。

「君も大人になったな~」とか
言いながら、
基礎から楽譜の読み方を教えると、
あれよあれよという間に
全部覚えて帰って行きます。

教科書は基礎の基礎。
でも必要なのです。

基礎の基礎は
おもしろくないかも知れないけれど、
将来思わぬところで
役に立つこともあります。

そういうスタンスで
音楽の授業を受けて下さいね。

だから、副教科と言わないで下さい。
「副」は「そえる」とも読みます。
受験5科目とは別に「副教科」と
言われることが多いし
このように言う人が圧倒的に多い。

音楽、技術家庭、体育、美術は
受験科目の「副(そ)えもの」では
ないのです。

この4科目は
ほとんどの人は
受験には関係ないけれど、
将来大人になったとき
教養として現れるのです。

あなたのその立ち居振る舞いに、です。
2017.12.09
スーホの白い馬
今日の小学2年生の生徒との話です。

ちょっとした表現を巡り
議論?になりました。

とはいうものの、
言い争いではなくて、
こんなプチ議論でした。

『スーホの白い馬』に
来週の学校の授業のときに進むので
そこを音読していたときのことです。

「日は、もう遠い山のむこうにしずみ、
 あたりは、ぐんぐん
 くらくなってくるのに、
 スーホは帰ってきません。」
というところです。

場面はいつ頃のことかという
問題があって、

Y君は「夜、おそく」を選びました。
「夕方」を選べば正解だったのですが。

するとY君が
このような反論をしました。

「でもな、
 『(日が)山のむこうにしずみ』って
 書いてあるやん。
 だから夜とちゃうのん?」

「確かにお日さんは
 山の向こうに沈んだけど
 急に暗くならへんやん。」

「そうなんかな~? それにな、
 『ぐんぐんくらくなる』って
 書いてあるし。」

大人なら、
山の上からの日没時の光景を
すぐに思い浮かべられるのですが、
小学2年生の子では
そうもいかないでしょう。

「日が沈む=暗くなる=夜」と
結びついているようです。

「そうやね~、
 例えばね、今のこの季節やったら、
 5時過ぎくらいからかな~。
 空が暗くなりかけてて、
 そのうちすぐに
 かなり暗くなって来るやろ。
 そんな感じかな~。」

「え~? そうなん?」

と、納得いかないようなので
もう一度音読しながら
振り返りました。

ポイントは、「あたりは、
ぐんぐん くらくなってくる」
というところです。

進行形の表現になっているのは、
完全に暗くなって、
いわゆる夜のとばりが降りるまでには
まだわずかであるけれど
時間が残されているということを
表しています。

「もしね、夜になっていたら、作者は
 『くらくなってくる』とは
 書かないと思うな~。
 Y君やったらどない書くかな?」

「う~ん・・・」と
しばらく考えていましたが、
妙案は浮かばなかったようで、
「先生やったら、どう書くのん?」と
逆質問をしました。

「『日は、もう遠い山のむこうにしずみ、
 あたりは、すっかり
 くらくなってしまいました。』
 かな・・・」

そう言って、書いて比べてみました。

① 日は、もう遠い山の
 むこうにしずみ
 あたりは、ぐんぐん
 くらくなってくるのに

② 日は、もう遠い山の
 むこうにしずみ、
 あたりは、すっかり
 くらくなってしまったのに

「あ、ナンかちがう・・・」とY君。

この「ナンかちがう」とは、
2つの文が持つ雰囲気の違いですね。

「そうやね~。ナンか違うね~。
 どっちが夜の感じする?」

Y君は②の方を選びました。

「ということは、『夜、おそく』は
 答としては
ふさわしくないんとちゃう?」

「ああ~、そういうことか~。」

やっと納得してくれました。


でも、こういう議論は大歓迎ですよ。
小学2年生のお子さんでも
ここまで議論できるのですね。

正直言うと、
指導者としては
かなり大変なんですね。

というのは、特に低学年期の
子どもさんから飛び出すことは
想定外のことが多くて、

言葉巧みに納得させることは
カンタンなのですが、
その巧みさが、かえって大人の都合で
言い伏せていることに
なりかねないのですね。

そうではなくて、
本当に納得させるように
(良い意味で)誘導してゆく
必要があります。

そこに「ナンか違うような・・・」という
違和感を残してはならない。

違和感を残さず、
本当に納得させるような誘導方法を
瞬間的に考えねばならないとう
瞬発性と繊細さを要求されることが
間々ありますが、

これが国語指導の
魅力ではないでしょうか。
2017.12.08
塾屋冥利に尽きるお言葉を戴きました
昨日、生徒が全員引けたあとで
ある生徒のお父さんと
電話で1時間ほど
お話をしていたのですが、

大手塾出身の塾長が開いている
個人塾に通わせていたけれど、
何か腑に落ちないところがあって、
友人の噂をたどり、
私の塾を見つけ、
転塾させたという詳しい経緯は
初めて知りました。

それで、結局のところ、
難関中学受験を目指すK君のお母さんと
同じようなことを言われました。

以下は、
K君のお母さんのメッセージです。

「(アメリカから帰国し
私立中学校を受験させるために
塾通いを始めてから)
国語がやっと念願の
偏差値50に乗って
クラスでのテストも安定したのに
あまりに受験直前過ぎて
志望校選ぶデータとしては
使えないと言われました。
そこらへん平川塾みたいに
一緒に喜ぶとか励ますは
微塵も無くて、データ相手の
大企業って感じでしたわ。」

でも、大手塾に対して
肯定的なこともおっしゃっています。

「平川塾と両輪でよかったです。
 M塾はバランスよく
 鍛えてくれたので。」

ここが個人塾と大手塾の違いかな・・・

大手塾さんは確かにバランスが
良いように思いますね。

確かにおっしゃるとおり
まずデータありき。
分母が大きいので、
それだけ精度も高いでしょう。

でも、それは数字上のデータ。
その子自身の心の奥深くまでの
データを持っているのが
個人塾の強味かな・・・。

それぞれに得手不得手があります。

それで、お父様がおっしゃったのが
このようなことです。

勉強の仕方を仕込んでやって欲しい。
それもパターン別で
覚えさせるのではなくて。

そんなのは塾から離れたら
たちまち困るでしょ。

学問に対する基本的な考え方とか
接し方とかを躾けてもらえたら、
それは一生使えます。

そういうのを教えてくれる塾を
探していました。

そうしたら、
友達が「平川塾があるよ」と
教えてくれたんです。

現在進めているスーパー飛び級
(最近は「スーパー教育」と
称しています)は、
正にこの考え方なのです。

基本的な考え方
いわゆる原理ですね、
それを徹底的に
肌に染み込ませること。

これは問題に対する解法パターンを
教え込むのとは
まるで次元が違います。

これを理解されないで
私の塾においでになった方は
そのほとんどが失敗されます。

こういう良さって
チラシに書けないのですね。

一瞬でこの良さを伝えられる言葉を
私はまだ見つけられていないのです。

敢えて書けば、
かつて Nissan GT-R の
開発グループの総責任者が
発した言葉でしょうか。

本当にいいものは
言葉では伝えられない。

カッコイイですよね。

とにもかくにも
こういう言葉をいただけるとき、
ホンマに塾屋冥利に尽きます。

そういうお言葉を
たくさんいただけるように
これからも日々精進してゆきます。
2017.12.04
「日本語はめんどくさい」とな?
帰国子女のK君。
今日もスーパー飛び級・国語
第2ステージで特訓です。

6年生の学習分の二巡目。

ちょっと国語の解答らしく
なってきたね。

「本日のお題」で
いちばん苦戦したのは
この場所でした。

問題文として登用されているのは、
 
ヨシローという飼い犬が
散歩の途中で突然姿を消したあと、
(飼い主である私が)
いつもの散歩道だったところを
たどりながら、
もしかしたら車にはねられて
大きなけがをしてはいないか、
あるいは最悪の場合、
どこかで死んでいるのではないか
という不安に駆られながら、
探し回っている場面です。

「私がヨシローと散歩してる除中に
 ヨシローがいなくなり、
 私が不安にヨシローを探したけど
 見つからなかった場面」

と書かれています。

ナンか、日本語、変じゃない?

①「散歩してる」⇒「散歩している」
②「除中」⇒「途中」
③「私が」という主語がありながら、
 あとにも「私が」となっていて、
 主語がかぶっている
④「不安にヨシローを探したけど」
 ・・・ナンか変だね。
⑤「探したけど」⇒「探したけれど」


なんとな~くつかめているのですが、
どうも上手いこと表現できないで
あえいでいる感じが伝わってきます。

問題にされている文章を読んで
「ヨシロー」「散歩」「不安」を
必ず使い、
どのような場面が描かれているかを
答えよという問題ですが、
6年生に対する要求のハードルが
かなり高いですね・・・。

私からのアドバイスは、
こんな感じです。

「不安な気持ちを強調するには・・・
『不安な気持ちになって
 探し回っている場面』を
 最後に持ってくると上手くいくよ。」


すると、
「私がヨシローと散歩している途中に
 ヨシローがいなくなって、
 不安にヨシローを探したけれど、
 見つからなかった場面」

と書いて返してきました。

だいぶん良くはなっていますが・・・

決定的なところが直されていません。

「不安にヨシローを探したけれど」
のところですね。

日本語、変やで~。


すると、
「書き直すわ」と言って
三度目の正直とばかり
書き直して持って来たのが、これです。


「私がヨシローと散歩している途中に
 ヨシローがいなくなり
 不安に思いながら
 ヨシローを探したけど
 見つからなかった場面」

「けど」が「けれど」になっていれば
とりあえず正解にしたところですが・・・

それにしても「ヨシロー」を
書きすぎてますね。

2つ目と3つ目の「ヨシロー」は
要らんと思うけれどな~・・・。

それでも、
何とか書こうとしているので、
「努力賞」やね。

「不安になっている」というのを
最後に持って来たら上手くいくという
私のアドバイスを
受け手入れていないのが分かります。

あくまでも自分が書いた形を
変える気はないようで・・・。

それで、
「けど」⇒「けれど」
「食べれる」⇒「食べられる」

などの、いわゆる
「『れ』抜き・『ら』抜き」の表現は、
国語では真っ先に
減点のターゲットにされるので、
入試では御法度なんよと言うと、

「日本語ってめんどくさい」と
のたまうK君。

もし日本語を
しっかり使えるようになったら、
完璧なバイリンガルになれる子です、
おそらく。

なので、この言葉は大歓迎なのです。
なんでかというと、
日本語の何たるかを
ちょっと分かってきたからです。

でも、英語だって
フォーマルな場所と
カジュアルな場所での
言葉の使い分けをするやん。

どこの国にも
言葉のTPOがあるのです。

日本語について、
ちょっと分かってきたんやね。

更に、こんなことも言いました。

I can come to see you tomorrow.
私は明日(であれば)、
あなたに会いに来られます。
 
(ここで「can」を使うのも
ちょっと意味が
キツすぎるのですが・・・)
 
このときの「来られます」も
本来なら間違いです。

「来ることが出来ます」としないと
いけないのです。

特にフォーマルな場所ではね。

フォーマルな場所には
それなりにハイソな人が集まります。

そこで、「けど」とか
「食べれます」なんて使ったら
教養を疑われます。

そういうところは、
どの国でも同じことです。

こういうところを、
日本の国語を通じて
身につけていってくれたらエエなと
思っています。
2017.12.01
ようこそ!
Facebook の友人として
繋いでいただいているお母様が、
本日、お子さんと一緒に
お車で1時間かけて、
吹田市から私の塾舎まで
お越しくださいました。



現在ZOOMオンライン授業は
こんな感じでしています。

アスリート君は
地域の子どもさんなので
リアル授業とZOOM授業を
そのときの状況によって使い分ける
いわゆるハイブリッド型で
進めています。

兵庫県尼崎市のお子さんの場合は
距離的にもそんなに遠くないので
月1回だけスクーリングと称した
リアル授業を受けて戴き
あとはZOOMオンライン授業で
進めています。

そして本日お越し下さった方も
大阪府下の方ですので
尼崎市のお子さんと同じ形で
早速12月より授業を進めるべく
ご縁を結んで戴きました。

前々から
わが子を受けさせるのであれば
私の塾と密かに
決めて下さっていたそうで、

Facebook にアップする
ブログでの授業の様子を
ご覧になりながら
1か月前に
ZOOMオンライン授業の様子を
ご覧になったことで、
本日のご来塾となりました。

ものすごい時代になりましたね。
それでも、
かなりな距離になります。
お車で1時間ですから。

本来なら通えても週に1回。
それが週2回となると・・・


先日、お問い合わせを戴いて
お越し願った方の場合では
自転車で20分くらいの、

間に1つの区を隔てたところからでも
ためらわれていました。

ことにお子さんが幼稚園の年長さんや
小学生さんなら、
お母さんが自転車に乗せて
こちらの塾まで
通って戴かねばなりません。

天候の良い日であればまだしも
雨降りの日には本当に大変です。

このことは年齢が幼くなるほど
お母さんの大変さが増え、
なおさらこの物理的な距離が
払拭しにくくなります。

それをZOOMオンラインであれば、
斯くも容易(たやす)く
解決してくれるのですから、
ものすごい技術革新なのです。
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